そんなことできるはずないの美学【映画】

2025年5月5日。池袋の新文芸坐さんで、『エグザイル 絆/放.逐』を見た。

 

 

世は『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』が驚くほどの大ヒット。こんな文章を書いている私も数回映画館に足を運ぶなどしており、21世紀に復活した九龍城塞、俳優陣の魅力的な演技に酔い痴れ、舞台美術の素晴らしさなどなど……まあ流行るよね。分かる。この映画はみんなが絶対好きになる、というような顔をしている。

そんな中、一度目に『九龍城砦』を見た際にすぐ思い出したのがジョニー・トー杜琪峯監督作品、代表作のひとつと言っても過言ではない『エグザイル 絆/放.逐』だった。(以下『放.逐』で統一。『放.逐』、『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』両方のネタバレを含む記事となります)

 

シンプルな物語だ。黒社会のボスを撃った男・ウー(ニック・チョン張家輝)。その男を守りたいふたりの男。その男を殺したいふたりの男。ボスを撃った男には妻子がおり、彼は死ぬ前に妻子に金を残したい、と言う。一緒に育ち、一緒に黒社会に入った(というような台詞がある)男たちは、ボスを撃った男のために大金を稼ぐため、大仕事に手を染めるが──というようなお話。

 

『放.逐』というタイトル通り、登場人物たちは繰り返し追い出される。組織から、安寧の場所だったはずの新しい住居から、友人の家から、ガス欠の車から、そしてこの世から。だが登場人物たちはなかなか屈さない。一緒に育って一緒に黒社会に入った──というのは説得に使われる台詞でもあり、守らなければ/殺さなければならない男が欠けたあとはごくごく自然に四人だけの芒洋とした旅路を流れ、そうしておっとびっくりそんなタイミングで? というような経緯で大金を得て、自分たちだけでも血生臭い黒社会から足を洗えるはずのタイミングからも──『放.逐』される。されることを、選択する。

 

強引に『九龍城砦』とこの作品を繋げる意図はない。ただ、『九龍城砦』を初めて見た時に脳裏を過ぎった感想が、昨日再び胸の中に浮かんだ。「タイ(ン・ジャンユー呉鎮宇)に背中を押され、クルマの鍵を受け取って生き延びたウーの妻(ジョシー・ホー何超儀)に抱かれていたあの赤ん坊が、30年の時を経て生まれ故郷に戻ってきたとしたら……どことなく『九龍城砦』に似ているのではないだろうか」と。

とはいえ、『放.逐』に出てくる悪党たちは(ウーの友人たちも含めて)ほとんど全員死ぬ。特に男性陣は見事に全滅する。生き残るのは後半突然登場してナイスガイっぷりを発揮するリッチー・レン任賢齊ぐらいだろう。リッチー・レンの役柄、そこまで悪漢じゃないしね。

だから、ウーの子どもが大人になって生まれ故郷に戻ってきたとしても、復讐する相手はいないし、お礼を言う相手もいない。2006年の作品ではあるが、物語の舞台は1999年。中国に返還される前のマカオが舞台だ。凱旋を果たしたとしても、そこには亡き父やその友人、敵たちが血まみれになって戦ったあの街はおそらくもう、ない。

だから別に、『九龍城砦』と『放.逐』を並べても何の意味もない。私の中にちょっと浮かんだ感想を活字に残したかった、それだけ。

 

もうひとつ。

この記事のタイトル『そんなことできるはずないの美学』。これもちょっと『九龍城砦』を思わせる部分が『放.逐』の中にあって、守るべき/殺すべき友人・ウーを失った四人の男はリッチー・レン扮するもうひとりの五人目の男と合流し、金塊を抱えて血まみれのマカオからの逃亡を試みる。結局彼らは逃げることではなく逃すことを選んで死地に向かうのだが、その直前の過度に和気藹々としたシーンで、それぞれが「金を得たらやりたいこと」を口にするカットがあり、大変印象的だった。

「勉強する」「銃の店を開く」「結婚する」──男たちが口にする望みはあまりにも細やかで、リッチー・レンが奏でるハモニカの柔らかい音も相俟って酷く切ない気持ちになる。その望みは叶わないのだ。これは作品を初めて見たわけではない私がその先の展開を知っているから思うわけではなく、概ねの観客がそう感じるのではないだろうか。逃げられるはずない。フェイ(サイモン・ヤム任達華)が彼らを許すはずがない。それに、劇中でも粛々と自体は最悪の方向に動いている。

九龍城砦』でも、城塞が取り壊された後の夢を語るパートがあり、印象的だった。城塞四少のうちのひとり、信一が「カラオケ店を開く」と言う。彼の大切な人である龍兄貴とともに、カタギになる夢を見る。この夢もまた、「そんなことできるはずない」と観客の肩を落とさせる、切ない夢だと感じる。信一が敬愛する龍兄貴は黒社会の人間で、信一もまたその世界にすっかり染まってしまっている(そう感じさせる描写が『九龍城砦』には少なからず出てくる、あんまり自己主張してこないところが巧い)。

逃げられないのだ。一度その黒に染まってしまったら。

『放.逐』の男たちは、その命で真っ黒い人生を清算した。『九龍城砦』の若者たちはどうだろう? 私は原作のコミックや小説を読んでいないし、今後翻訳される小説と制作されるであろう映画をのんびりと待つ構えなので、なんとも言えない。あとネタバレは踏みたくないので今後の展開について連絡を入れてくるのもやめてほしい。

 

最近あまり使わなくなった言葉。美学。誰かに制限されているわけではない。私自身が小っ恥ずかしくて使わなくなった言葉。美学。久しぶりに見た『放.逐』には確かにそれがあった。守る者にも、守られる者にも、そして殺しにきた者にも。

 

好きなシーンを、最後に。

ラストシーンはもちろん観客みんなが好きだと思う。数年ぶりにスクリーンで『放.逐』を見て印象に残ったのは、自動車の中でのシーンだった。「おまえは死んでた!」「ウーが守らなかったらおまえは死んでた!」とハンドルを握りながら助手席のブレイズ(アンソニー・ウォン黄秋生)に吠えるタイ。さらには最早生きているのが不思議な状態のウーを後部座席で守りながら、ハンドルを握るキャット(ロイ・チョン張耀揚)に「家に帰るんだ!」と叫ぶタイ──。

タイという男のウーへの想いや、彼を守りきれなかった自分自身への怒り、不甲斐なさ、そのすべてがぎゅっと凝縮されている車内のカット。タイは、車の中以外では別に吠えないのだ。友達の前でしか、その本心を爆発させない。第三者の前に立つ際、彼はいつも静かで不敵な笑みを浮かべている。不思議な男。

 

そんなことできるはずない。黒社会から抜けられるはずがない。金塊を抱えて逃げられるはずがない。

そんなことできるはずない。九龍城砦がなくなったら、大切な兄貴分と一緒にカラオケ店を始めるなんて夢が叶うはずない。黒社会の闇は途方もなく深いのだ。

そこにはいびつな美しさがあって、『放.逐』の男たちは華やかな闇の中で大切な友人たちと笑い合いながら死んだ。『九龍城砦』の若者たちは、どうだろう?